対象読者
- 娯楽で終わらない読書がしたい方
- 読んだ内容を深く理解し、記憶したい方
- 読書で得た知識を体系的にアウトプットできるようになりたい方
結論
私は長年読書をしてきた。いろんな知識や意見を自分の中に醸成できたような気がしていた。
しかし、読書で得たネタをブログの記事にしようとした途端、その自信は崩れ去った。知識は確かに増えていたが、記事としてまとめるほどには記憶も理解もできていなかったことを思い知らされた。多くの時間を注ぎ込んだ読書が無駄になってしまったとショックを受けた。
そこで、読書を確実に血肉とし、アウトプットできるレベルになるためには、単に読書するのではなく、読書内容を自分の言葉でノートにまとめる作業(以後、精読と呼ぶ)が必要なことに気づいた。
もっと早くから精読をしていればよかった、とかなり後悔している。(良い)教科書を精読するような勉強スタイルを学生時代から築けていれば、塾なしでも良い成績を取れたはずだと確信している。
ノートはアウトプットではなくインプットの範疇だ。試験で問題を解いたり、仕事や実生活に応用したり、自分で記事を書くことがアウトプットだ。本書はそのための前準備としてノートをまとめる方法・注意点についてまとめたものだ。
以下では、
- 読みっぱなしの限界
- 精読のメリット・デメリット
- 理解の構造
- 理解の構造に沿った精読をするための補足
- 紙ノートの限界、ノートのペーパーレス化
を述べる。
読みっぱなしの限界
私は能力を向上させ、人生を充実させるために大学2年生から読書を開始して8~9年ほど経過した。その経験から、読書によって以下を得られることを実感した。
- 学校では学べないようなこと
- ネットでは学ぶのが難しいような体系的な知識
読んだ内容はすぐに忘却していくことは当初から分かっていた。それでも、脳内には何かしらの残滓が積み重なっていくはずだ。読書を漫然と続けていけば、自分のテーマのようなものが醸成され、ものを書けるようになると信じていた。
ネタも貯まってきたし、ブログにまとめてみようと思った。ところが、うまく書いてまとめられるほど、記憶も理解もできていないことが露呈した。ネタというは断片的なウンチクでしかなく、得た知識や自分の意見を統合できるほどに深まっていなかったのだ。
「興味があることは忘れない。忘却が起こるからこそ重要な観念が生き残り、組み合わされる。オリジナルで面白い意見が生じる」という意見がある[1]。
確かにそういう面もあったが、ノートなどにメモしてないと、フワッとしたものしか書けない。その意見に至る根拠を漏れなく列挙できたり、引用できたり、イイ感じの例を挙げたりできなければ、薄っぺらいものになる。読みっぱなしにして、ただ忘却に身を任せるのはいけないと思う。
読書をノートにまとめる「精読」のメリット・デメリット
そして私は読書スタイルを変えた。すなわち、ページをめくり文字をなぞるだけの読みっぱなしスタイルから、一度立ち止まって読書内容を自らの言葉でノートにまとめ直すように変わった。
この読み方を「精読」と呼ぶことにする。精読には以下メリットがある。
- メモしたい場所を探す読み方は、素通りすることを防ぎ、しっかりした理解へと導く
- 本の選定力・審美眼を養える。メモに値する内容が多ければ、それは重要な本であることが分かるからだ
- 学んだ内容を復習するとき、本を読み返す代わりにノートを見れば済むので、かなり時短になる
- ノートで復習できるので、精読した本を捨てることができ、部屋をスッキリできる
対して、デメリットは以下だ。
- 1冊を読むのに2~3倍の時間がかかる(まず大まかに理解するために、次にノートに書けるくらい具体的に把握するため、の最低2回は同じ箇所を読み直すことになる)
- 読書が気軽に行えなくなる
ノートにまとめるのは大変だ。でも、2~3回同じ本を読むよりも、1度精読した方が記憶に定着したように思う。内容を忘れてしまっても、ノートですぐ復習できるし、本を処分できるし、良いことずくめだ。
「年間数百冊読みます」みたいに自慢したい方にとって、精読はデメリットだ。しかし、本の内容をしっかり理解し、引用できるレベルになりたい方にとってはメリットの方が大きい。
理解の手順 分析の構造[2]
なぜ自分の言葉でまとめ直すことが重要なのか。その作業は理解する過程(分析)そのものだからだ。
理解・分析は以下の2つの手順で構成される。
- 分解:雑然としたインプットから目立つものとそれに従属する細部の構造を見出す
- 再構成:分解で得た構成要素を組み直す
例えば、なにかしらの機械の仕組みや概念を理解したければ、それをバラバラに分解した後に元に戻せばよい。どのような構成要素があるのか、それらの組み合わせ方を把握すればよいのだ。
何が「目立つもの」として選ばれるかはその人の興味・欲求に依る。そもそも区別する必要性があるからこそ特定の部分に注目し、その他との分離が可能となる。ヒトは赤いものに注目する性質を持つのは、まだジャングルに住んでいた頃に果物や木の実を見つけ出すことが重要だったからだ。
読みっぱなしでは理解が甘いのは、分解・再構成がハッキリ意識されないからだ。読んだ内容の中で心に響いた部分、重要だと思った部分を探し出し(分解)、それを自らの言葉で書き直すこと(再構成)をしなければならない。
理解の構造に沿った精読をするための補足
上記メリットのところにその理由も併記したが、ここで2点補足する。
「メモしたい場所」は厳選しなければならない
几帳面な女の子で教科書にカラフルなマークをしたり、付箋を貼りまくったりしているのを見たことはないだろうか。これはメモの場所を厳選できていない例だ。結局重要な点(目立つ場所)はどこなのが分からなくなってしまう。
自分の言葉による要約が大事だ。そうすれば、書き写す作業よって枝葉末節に囚われずに幹の部分の理解に集中できる。枝葉末節の理解はその後にすべきだ。
でないと、いっぱい勉強したのに全体像が分からない、という事態が生じる。
後で読み直しても理解できるようにしっかり書かなければならない
少し読んだだけで書いてまとめてはダメだ。ただ書き写すことに繋がるからだ。こうして教科書の劣化版コピーとしての無価値なノートが出来上がる。
先の補足に繋がるが、幹の部分は何かを把握してから、その上でメモに値する枝葉末節のみを抽出してまとめなければならない。この取捨選択が「分解」であり、それをうまく配列してノートに書くことが「再構成」となる。
書き写しのようなノートは言葉足らずになりがちで、後から読み直してもあまり理解できない。結局、原著を読み直さなければ復習できなくなり、精読のメリットが半減する。
うまく幹を捉えらえて、用語を抑えたり、定理のようにロジックを抜き出すことができれば、それらを引用することで記述をコンパクトかつ理解しやすくできる。このコンパクトさが復習を容易にしてくれる。
紙ノートの限界
上の精読の補足に従えば、良いノートを作ることができる。読書の理解も数段深くできるし、それに応じて記憶への定着も良くなる。
それでも読んだ内容は忘れてしまう。ただ、精読によって労力をかけた分、詳細は忘れるものの、どの本に何が書いてあったか、というインデックスは忘れにくい。
- たしかあの時期に読んだ本に書いてあったような気がする
- あの著者の本で読んだ気がする
このインデックスを頼りにそのノートを読み返すことで、復習をサッと済ますことができる。アウトプットの際に引用元を書くこともできる。こうして、どこの馬の骨が書いたとも知れない記事に権威性を与えることができる。
しかし、そのためにはノートを検索しやすくしなければならない。紙ノートの場合、検索容易性を実現するのは容易ではない。
紙媒体へのメモには以下のような問題点がある。これらは検索困難性と編集困難性という2つのキーワードでまとめられる。
- 経年劣化によって文字が滲んでしまう
- メモ内容の書き換え・順番の入れ替え等が困難
- 目的のメモを探すのに時間がかかる(1枚ずつ見るしかない)
- メモがかさばっていき、管理が大変になる
しかも、これらの問題は以下のようにすべて関連している。
- メモ内容を修正しようとすると、紙が痛んで文字が滲んでしまう
- メモを探す度に、ノートが擦れ合い、文字が滲んでしまう
- メモが多くなってくると、探すのが大変になる
- 文字が滲むと、メモを探しづらくなる
よって、紙媒体でノートを積み上げていくことには問題がある。
確実に知識を積み上げていきたい方にとってノートのペーパーレス化は避けられない。
参考
- 思考の整理学
- 論理学 考える技術の初歩[エディエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック]
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