対象読者
- 算数・数学に苦手意識がある方
結論
小中学校まで数学(算数)は得意だったのに、高校数学で嫌な思いをした方は多いと思う。さらには、高校数学は得意だったが、大学数学で挫折する人も多いと云う。
進級・進学に伴い、どんどん難しくなっていく数学。あぁ、算数は簡単だったのに。。。
しかし、本記事の結論は一般的な見解とは逆だ。すなわち、算数はある意味数学よりも難しい。別の言い方をすると、算数が難しいからこそ数学が難しいのだ。
これを説明し始める前に、まずは算数と数学の定義を示し、違いを明確にする。
数学と算数の違い
数学とは、数や図形に”公理体系(造語)”を与える学問である。
公理体系?これは実は中学数学でも登場している。はっきりと意識して扱うのは大学数学以降である。公理体系とは要は、前提から論理的に結論を導くこと(証明)を積み重ねたものだ。込み入った話になるので、詳細は後述する。
対して、算数とは、数学の中の初歩的な部分について訓練するために便宜上定められた科目である。故に、算数は数学の一部分である。中国や台湾、朝鮮では算数は「小学数学」と呼ばれているようだ。
算数では、九九やひたすら計算問題を解いたりなど、反復によって数量の扱いに慣れていくことが重視される。
よって、数学と算数の違いは以下のようにまとめられる。
- 数学は証明を重視
- 算数はイメージを重視
次は、公理体系について述べ、数学の構造を浮き彫りにする。そして、数学と算数の関係へ言及する。
数学は公理の上に成り立つ
科学は定説が否定され得る。アリストテレスは重いものの方が速く落ちると思った(素朴物理学)。ガリレオは重いものも軽いものも同じ速度で落下することを発見し、アリストテレスを否定した(落下の法則)。
対して、数学は常に正しい。それは公理体系という論理構造が数学に永遠の力を与えるからだ。
公理体系とは「公理や定義から出発して、証明という手続きを通して定理を積み重ねていくことによって構成された理論」という意味だとする。
公理体系は以下の構成要素から成る。
- 公理:議論の出発点となる、正しいと定めた主張
- 定義:議論を円滑に行うための取り決め
- 証明:正しい主張から、別の主張が正しいことを導く手続き
- 定理:証明された主張(定理を用いた定理も元を辿れば公理に行き着く)
ここで重要なのは公理である。以下の会話を見て欲しい。
Aなのはなぜだろう?
それはBだからよ。
では、なぜBなのだろう?
それはCだからよ。
このように物事の説明には限りがない。そこで、「と、とにかく、この主張は正しい!根拠はないけど!」っていう出発点が必要となる。それが公理だ。
公理は根拠もなく決められるが、無茶苦茶に決められている訳ではない。ヒトが持つ基本イメージと照らし合わせた結果、説明も保証もできないけど、直観的にどう考えても正しいと思われるものが公理として採用される。
例えば、「平行な直線は交わらない」とかだ(ユークリッド幾何学)。こういった公理が前提となって、三角形の内角の和が180°だとか、錯角は等しいとかが導かれる。
公理たち(公理系)を元に、論理的に考えることでいろんな場合や状況に対して一貫した説明(定理)が導かれる。これが証明である。証明自体は論理によって常に正しいことが保証される。これが数学を永遠たらしめる。
しかし、公理系が本当に正しいという保証はない。数学とは、前提(公理系)が正しいという仮定の上に成り立つ、条件付きの真理なのだ。
現に、世界はユークリッド幾何学ではなく、非ユークリッド幾何学であることが相対性理論から分かったようだ。では、ユークリッド幾何学が間違いだったのか?そんなことはない。証明自体は正しいからだ。
算数が難しいから数学も難しい
以上で、数学が公理という不確かな前提の上に成り立つことを確認した。そして、このように思ったはずだ。
いや、算数より数学の方が難しいんですけど。。。
確かに、証明を正しく行うことは難しい。故に、巷では数学によって論理的思考力を養うことができると言われているのだと思う。
しかし、証明が重要である一方で公理こそが重要だ。議論の根幹だからだ。公理などの前提を理解していなければ、証明を行うことはできない。
そこに算数の存在意義がある。公理や定義を直観的に理解できるようにする訓練が算数だと思う。
公理や定義に対してイメージが湧かない状態で、三角関数の合成や内積などの(算数から見れば)発展的な内容を理解できるわけがない。発展的な内容に対して納得し、理解する土台がイメージであり、算数だ。
例えば、三角関数は一見難しいが、分解すれば全て算数で説明できる。単位円は小学生でも理解できるはずだ。原点や座標も算数で習う数直線によって理解できる。そして、余弦関数\(\cos\theta\)とは、原点を中心とする単位円の角度\(\theta\)にある点の\(x\)座標を示しているに過ぎない。
このように、算数を基礎とする直観的理解を地道に積み重ねていくことによって、発展的な数学の内容を理解することができる。
数学は算数より難しいのだろうか。前提での躓きが積み重なっただけではないだろうか。数学が難しいのは、算数という土台が難しいからではないのか。
算数を教えるのは激ムズ、数学は簡単
私は塾講師のアルバイトで、中学・高校数学を教えていた経験がある。数学を教えるのは簡単だ。以下のようなことを機械的に伝えれば大体事足りるからだ。
- どの定理(公式)を当てはめればよいか
- 式変形や計算の進め方
このような教え方をすると、生徒は「なるほど」とか言って、その問題を理解した気になる。しかし、類題でまたもや躓いたりする。解法を覚えただけで理解できておらず、問題に応じて定理を適切に使うことができないからだ。
対して、算数を教えるのは鬼ムズい。例えば、以下の質問にどう答えればよいのだろうか?
マイナスにマイナスを掛けると、なぜプラスになるの?
なぜ 1 + 1 = 2 なの?
算数は説明不可能な直観的なイメージに帰着するため、答えようがないのだ。「決まり事だから」とか「敵(マイナス)の敵(マイナス)は味方(プラス)でしょ」とか言ってお茶を濁すしかない。ただ、後者の解答はいい感じだと思うが。
このような根本的な質問をする人ほど数学が得意なことが多いように感じる。決まり事だとして納得することを棚上げして、次の単元へと焦って進むことが悲劇の始まりである。
数学には算数にはなかった記号が多く盛り込まれている。そのため、両者とも根本は同じなのに見た目は違ったように見えて面食らってしまい、それが焦りに繋がる。
しかし、その記号が導入された理由を直観的理解(イメージ)に落とし込むことが数学力を高めるのに重要だと思う。これを「数学の算数化」とでも呼ぼうか。
数学の算数化が難しい例
数学の算数化が困難である例を3つ挙げる。人類が数学の算数化に苦心した歴史を知れば、焦らずにじっくりと数学に向き合う気になるかもしれないし、ならないかもしれない。
自然数から複素数へ
1つ目はマイナスや分数などを理解すること自体が難しい例だ。
ヒトは原始的には指を使って数を数えてきた。10進数を意味する「digit」が指を意味するところにその名残がある。
指で数え上げあられる数値を「自然数」という。これは\(1,2,3,..\)というような、正の整数を表す。
そこに、インド人がゼロという概念を持ち込んだ。今となっては当たり前だが、何もないことを表すゼロは革命的だったのだ。ゼロによって位取りの考え方が生まれ、数値をよりスマートに表現できるようになった。
さらに発展して、有理数やマイナスの数、果ては複素数というように、数の概念は拡張していった。これには千年とか長い時間を要した。
算数では、自然数を超えて、分数やマイナスの数を扱う。そりゃ難しいに決まっている。
ピタゴラス教団による無理数の否定
2つ目も同様にヒトが数の拡張し苦戦した例だ。
三平方の定理、別名はピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、マイナスの数や無理数といった概念を認めていなかった。なぜなら、マイナスなんて指で数えられないし、有理数で表現できないような世界なんて美しくないからだ。
ピタゴラスは怪しげな教団を設立し、数学の研究が進めていた。そして、長さ1の直角二等辺三角形の斜辺の長さは\(\sqrt{2}\)となり、有理数で表すことができないことを弟子が発見してしまう。
これはピタゴラス教団の信条、つまり世界は比(有理数)で表すことができるという教義に反する。その弟子は反逆者として処刑された。
これほどに、前提への先入観を拡張することは困難なのだ。
分数の割り算が難しかった
同様に、私も小学生の頃「分数の割り算」を理解するのに苦労した。後に数学が得意になったにも関わらず、である。いや、だからこそ数学が好きになって、得意になれたのだ。以下にその苦労話を述べる。
私は、分数の割り算にて、分子・分母を入れ替えて掛けるルールが理解できなかった。例えば、
$$5\div\frac{3}{4}$$
を解け、という問題があるとする。数値だけ与えられてもイメージできないので、何か具体的なものを当てはめてみる。例えば、5個のリンゴを\(3/4\)人で分ける、と具体的に考えてみるが、
??
イメージできない。\(3/4\)人というのが不自然だ(自然数でない)からだ。
しかし、悩んだ末に私は、分子分母を同じ数で掛けても値は変化しない、という性質に気づいた。これは、10個を2人で分けるのも、20個を4人で分けても、1人あたりの数は変わらない、ということが計算でも分かるし、イメージも湧くからだ。
ということで、分子、分母に4を掛けて、不自然な割る値を自然な値に修正した。
$$5\div\frac{3}{4}=\frac{5}{\frac{3}{4}}=\frac{5\times4}{\frac{3}{4}\times{4}}=\frac{20}{3}$$
なるほど、20個のリンゴを3人で分けるのか、これならイメージできるぞ。
む?
これは分数の分子分母を逆にした\(4/3\)を掛けた結果と同じじゃないか!分数による割り算のルールを理解した瞬間だった。
算数という土台が難しい
私が仮に、分数の割り算について他人から教えてもらったとしても理解できたかどうか怪しい。基礎的すぎる話をいかに他人から教えられても、腹の底には響いてこない。自分が持つ数学的直観(イメージ)との対話を通じて納得しなければならない。
また、数学は、「このように公式を適用しましょう」と言えちゃうけど、算数にはそれができない。そこに算数の難しさがある。
しかし、算数という土台がなければ数学は理解できない。この意味において、算数は数学よりも難しい。
こんな偉そうに講釈垂れているが、わたくし、大学数学で挫折しました(笑)。
おまけ:数学は役に立つ
私は小学校から大学まで数学を学んできた。現在、仕事で微分積分や行列などの数学の理解が必要だし、投資では等比数列が生きている。いやぁ、数学なんて何の役に立つの?って思っていたのに(笑)。
算数を積み重ね、数学を勉強してきて良かった!
参考
- 算数[wikipedia]
- 哲学入門 [バートランド・ラッセル]
コメント
≪… 条件付きの真理 …≫を、経(釈迦の言葉)としての仏教の教義として【大原問答】の記事に・・・
『聖道仏教 浄土仏教]は、数の言葉ヒフミヨ(1234)から観ると、ひふみよと唱える(詠う)ことそのモノだ。
聖道仏教(数学の摂取した e i π ∞)を既に【摂取不捨】(南無阿弥陀仏)したモノがヒフミヨ(1234)に生る。
もろともにあわれと思へヒフミヨは数より他に知る人もなし
とある。
≪…数学と算数の違い…≫について、≪…両者とも根本は同じ…≫を、≪…その記号が導入された理由を直観的理解(イメージ)に落とし込むことが数学力を高めるのに重要だと思う。これを「数学の算数化」とでも呼ぼうか。…≫の雰囲気を3冊の絵本で・・・
絵本「哲学してみる」
絵本「わのくにのひふみよ」
絵本「もろはのつるぎ」
ムズいけど、素晴らしいブログなのはわかる
こういう益を成す人間がいるからこの世界で生きていられる